西涼の戦士 馬超/Ma Chao, Western Warrior

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*[[袁紹の歩兵部隊/Yuan Shao's Infantry]]の上位種的存在。「[[単独で攻撃]]すると[[ブロック]]されない」能力を持つ[[クリーチャー]]としては他に[[夢でうろつくもの/Dream Prowler]]がいる。
 
*[[袁紹の歩兵部隊/Yuan Shao's Infantry]]の上位種的存在。「[[単独で攻撃]]すると[[ブロック]]されない」能力を持つ[[クリーチャー]]としては他に[[夢でうろつくもの/Dream Prowler]]がいる。
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*[[神河物語]]の[[レジェンド (クリーチャー・タイプ)|レジェンド]]廃止によって、一時期は[[クリーチャー・タイプ]]を持たなかったが、[[2007年9月サブタイプ変更]]で[[人間]]・[[兵士]]・[[戦士]]が追加された。
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==ストーリー==
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*[[Wikipedia:ja:馬超|馬超]]、字は孟起。[[Wikipedia:ja:後漢|後漢]]建国期の名将[[Wikipedia:ja:馬援|馬援]]の末裔。父の[[Wikipedia:馬騰|馬騰]]ともども[[Wikipedia:ja:漢民族|漢人]]と[[Wikipedia:ja:羌|羌族]]の混血であり、羌族とつながりが深い。漢中軍閥の筆頭格として連合軍を結成、勢力を伸長してきた[[魏公 曹操/Cao Cao, Lord of Wei|曹操]]と激突するも、内部に不和を抱えた連合軍では歴戦の曹操軍には敵わず敗走、転々とした後に[[蜀主 劉備/Liu Bei, Lord of Shu|劉備]]の元に参じる。しかし劉備の元では活躍の機会を得ることなく病没した。
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*演義では、悪玉の[[魏/Wei]]と戦った末に善玉の[[蜀/Shu]]勢力に入ったことが幸いしてか、一貫して好待遇。初陣の[[暴君 董卓/Dong Zhou, the Tyrant|董卓]]軍残党の討伐戦から煌びやかな活躍を見せて「錦馬超」の異名を取り、蜀入り後は[[列聖の武将 関羽/Guan Yu, Sainted Warrior|関羽]]・[[猛将 張飛/Zhang Fei, Fierce Warrior|張飛]]・[[虎威将軍 趙雲/Zhao Zilong, Tiger General|趙雲]]・[[蜀の将軍 黄忠/Huang Zhong, Shu General|黄忠]]と並んで「五虎将」なる称号も得ている。一方で正史では暴君としての描写が多く評価は低いが、西方異民族に出自を持ち、そちらの価値観を色濃く持っている馬超への[[Wikipedia:ja:中華思想|差別意識]]から過剰に悪く評されているという見解もある。
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*父の馬騰は一族を連れて曹操の元に参じており、馬超が反乱した罪に連座して一族全員が処刑されている。最も尊重すべきである父を自分の都合で死なせたことが馬超の悪評の最大要因になっている。なお演義では逆に、馬騰が曹操の陰謀に巻き込まれて処刑されたために反乱を起こしたことに変更されている。
  
 
==参考==
 
==参考==
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*[[Wikipedia:ja:馬超]]
 
*[[カード個別評価:ポータル三国志]] - [[レア]]
 
*[[カード個別評価:ポータル三国志]] - [[レア]]
 
==歴史上の人物==
 
馬超(176年〜222年)は扶風郡茂陵県の人、字を孟起という。父は羌族の娘を母に持つ馬騰で、馬族は漢中・涼州軍閥の中では羌族とつながりが深い。
 
 
202年、父とともに鍾繇を通した[[魏公 曹操/Cao Cao, Lord of Wei|曹操]]の要請を受けて[[優柔不断なる君主 袁紹/Yuan Shao, the Indecisive|袁紹]]の残党である郭援と高幹を討伐して軍功を上げた。父が入朝するとそのまま軍閥を引き取り、韓遂らの援助もあって漢中軍閥の筆頭となる。
 
 
211年、張魯討伐のために兵を挙げた曹操が漢中を通過する際、これを攻撃。正史では数名しか明かになっていない上一部怪しい部分もあるが、韓遂、楊秋、成宜、侯選、程銀、李堪、張横(甫坂津を渡河する際に徐晃に斬られたという記述のみ)、梁興、馬玩(馬超らと異なる馬族の軍閥)軍閥の連合軍といわれる、およそ10万兵に登る大規模な反乱であった。曹操はこれを策と蓄え続けた軍力で翻弄、徹底的に打ちのめして馬超は敗走し、涼州の奥へ遁走する。こののち、入朝していた父の一族は詔勅によって全て処刑されており、晩年「私の一族は悉く曹操に殺されました」と語っていることから、曹操個人に対しての憎悪がかなりあったと考えられる。
 
 
212年に羌族を糾合し4万近くの兵を挙げ、さらに漢中の張魯の支援を受けながら再起を図り、呼応しなかっ太守・韋康と戦う。配下の趙昴や楊阜は親族を人質にとられるも冀城で半年近く籠城。韋康に主戦論を展開するが、韋康は講和を申し出た。馬超はこれを受諾するも、「すぐに降伏するような者は信用できない」と手の平を返して韋康を殺害、強制的に組み敷いた。このような馬超の横暴に腹の底で据えかねていた楊阜・姜叙らの名士たち(親曹操軍閥)は士大夫12名と謀議し、馬超を駆逐した。ちなみに近年は馬超の婦人と接近し、策において一役買った趙昴の婦人である王異の名が知られるようになっている。
 
 
その後、馬超は張魯を頼って逃亡。「いつか漢中を奪還してみせる」と常々提言し軍を提供されるが、祁山を守る趙昴の前にことごとく敗退。ある時30日間祁山を包囲したが、王異・趙昴の奇策もあって退けられている。しかし度重なる失敗や張魯との不和もあって出奔、益州を攻略中であった[[蜀主 劉備/Liu Bei, Lord of Shu|劉備]]の元に参じた。馬族筆頭である馬超の参陣は背後にうごめく羌族の存在を彷彿とさせ、劉璋軍を恐怖に陥れた。劉備が益州を手にできた一員には、彼の帰参も大きい。劉備麾下では左将軍・仮節に昇進し、221年には驃騎将軍・涼州牧になるも222年に病没する。前途有望な47才という年齢であった。劉禅の世、威侯と諡された。
 
 
三国志演義では錦馬超などとたたえられ、[[猛将 張飛/Zhang Fei, Fierce Warrior|張飛]]と互角に打ち合うといった、蜀陣営の中でも勇猛果敢さにおいて高評価を得ている。曹操をあと一歩まで追い詰めた事になっている(実際には苦戦させた程度)漢中戦、殊に架空の産物である五虎将(関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠の5人)に含まれるなど見せ場のある武将で、現代においても人気が高い。おそらく後世、三国志演義において「善人」扱いされる劉備陣営に属したことが大きいと思われるが、正史においては一族を顧みなかったことを批判されている。ただ劉備に仕えたことにより孝悌を回復したことは評価されている。楊阜を筆頭とする親曹操派は漢の士大夫が多く含まれており、彼らは儒教思想を中心と据えていることから、馬超に対しては存在に対する根幹からの憎悪(羌族のつながりなど)があったことが推測される。
 

2024年8月15日 (木) 19:52時点における最新版


Ma Chao, Western Warrior / 西涼の戦士 馬超 (3)(赤)(赤)
伝説のクリーチャー — 人間(Human) 兵士(Soldier) 戦士(Warrior)

馬術(このクリーチャーは、馬術を持たないクリーチャーによってはブロックされない。)
西涼の戦士 馬超が単独で攻撃するたび、それはこの戦闘でブロックされない。

3/3

ただでさえ馬術持ちの上に、条件付でブロックされなくなる伝説のクリーチャー対戦相手を追い詰めるにはサイズがちと小さめなのが心もとないが、にらみ合いになったときに強さを発揮する能力である。

ポータル三国志にはパワー強化するカードがないので、火力で支援するべきである。もしくは名馬にのせて「錦馬超」の名に恥じない活躍を見せると良い。

[編集] ストーリー

  • 馬超、字は孟起。後漢建国期の名将馬援の末裔。父の馬騰ともども漢人羌族の混血であり、羌族とつながりが深い。漢中軍閥の筆頭格として連合軍を結成、勢力を伸長してきた曹操と激突するも、内部に不和を抱えた連合軍では歴戦の曹操軍には敵わず敗走、転々とした後に劉備の元に参じる。しかし劉備の元では活躍の機会を得ることなく病没した。
  • 演義では、悪玉の魏/Weiと戦った末に善玉の蜀/Shu勢力に入ったことが幸いしてか、一貫して好待遇。初陣の董卓軍残党の討伐戦から煌びやかな活躍を見せて「錦馬超」の異名を取り、蜀入り後は関羽張飛趙雲黄忠と並んで「五虎将」なる称号も得ている。一方で正史では暴君としての描写が多く評価は低いが、西方異民族に出自を持ち、そちらの価値観を色濃く持っている馬超への差別意識から過剰に悪く評されているという見解もある。
  • 父の馬騰は一族を連れて曹操の元に参じており、馬超が反乱した罪に連座して一族全員が処刑されている。最も尊重すべきである父を自分の都合で死なせたことが馬超の悪評の最大要因になっている。なお演義では逆に、馬騰が曹操の陰謀に巻き込まれて処刑されたために反乱を起こしたことに変更されている。

[編集] 参考

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