藤田憲一

提供:MTG Wiki

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(概要)
18行: 18行:
 
*[[金澤尚子|ぴよぷー]]漫画の似顔絵は詐欺とも。
 
*[[金澤尚子|ぴよぷー]]漫画の似顔絵は詐欺とも。
 
*[[朱鷺田祐介|トキリン]]に代わり、[[レミィ・キルミスター|レミィ]]の師匠として描かれる。その後、[[景山太郎|単色王子ジョン]]にその役目をバトンタッチしている。
 
*[[朱鷺田祐介|トキリン]]に代わり、[[レミィ・キルミスター|レミィ]]の師匠として描かれる。その後、[[景山太郎|単色王子ジョン]]にその役目をバトンタッチしている。
 +
*上述の通り「日本初のグランプリ覇者がトロフィーを割った」という伝説を残したのだが、後のフジケン組のネタと相まって'''故意に[[粉砕/Shatter|叩き割った]]'''と認識しているプレイヤーが少なからずいる。
 
*「練習しなければしないほど強い」らしい。
 
*「練習しなければしないほど強い」らしい。
 
*[[グランプリ東京97]]で[[戦士の誉れ/Warrior's Honor]]の存在を利用した[[ブラフ]]から、「攻撃する時は、とぼけてアタック」なる迷言を生み出した。
 
*[[グランプリ東京97]]で[[戦士の誉れ/Warrior's Honor]]の存在を利用した[[ブラフ]]から、「攻撃する時は、とぼけてアタック」なる迷言を生み出した。

2012年2月15日 (水) 21:15時点における版

藤田 憲一(ふじた けんいち)は、日本のマジックプレイヤー

アメリカやヨーロッパの巨漢プレイヤーたちに引けを取らない体格を持ち、相手を威嚇するかのような表情から「悪い男」の異名を持つ。愛称はフジケン組長

目次

概要

マジック黎明期より渋谷を中心に活躍しており、中村聡広木克哉と共に、日本でのマジック普及に尽力した。

日本初のグランプリであるグランプリ東京97で優勝を果たす。しかし、優勝トロフィーをうっかり落として壊してしまい、Andrew Finchに代わりのトロフィーを貰えるかを尋ねるものの、「またグランプリを勝ちなよ」と言われ貰うことができなかった。そして、言われたとおりグランプリ台北99で再び優勝(日本人初の海外グランプリ制覇)を果たす。

日本で初めて強豪プレイヤーたちが結集した集団「フジケン組」の創立者とされるが、意図的に作ったのではなく、渋谷のプレイヤーによって勝手につけられたもので、「フジケン組」たるチームはなかったと氏は発言している。氏のこわもてとその命名があいまって、暴力団の名前であるかのように一人歩きし、今でもたびたび氏をからかうネタとなっている。フジケン組長と呼ばれるのはこれが由来である。

90年代~00年代にかけて、ゲームぎゃざなどで、コラムの執筆や初級~中級者向けのルーリング講座のガイド役をして後進の育成に貢献。また、プレイヤーとしても日本選手権に第1回(1996年)から11年連続出場の大記録を樹立した。

現在は第一線を退いているものの、タカラトミーのホームページで基本セット2010のコラム(黒レビュー)を担当するなど、今なお存在感を示している。

  • (特にハンデス)使いとしても有名で強迫/Duressをこよなく愛している。本人いわく、「初手に強迫が無ければマリガン」だそうだ。
  • ぴよぷー漫画の似顔絵は詐欺とも。
  • トキリンに代わり、レミィの師匠として描かれる。その後、単色王子ジョンにその役目をバトンタッチしている。
  • 上述の通り「日本初のグランプリ覇者がトロフィーを割った」という伝説を残したのだが、後のフジケン組のネタと相まって故意に叩き割ったと認識しているプレイヤーが少なからずいる。
  • 「練習しなければしないほど強い」らしい。
  • グランプリ東京97戦士の誉れ/Warrior's Honorの存在を利用したブラフから、「攻撃する時は、とぼけてアタック」なる迷言を生み出した。
  • かつてゲームぎゃざのコラムで真木孝一郎と対談し、ふたりして「マジックよりも納豆のほうが大事」という結論を出していた。
  • セガ発売のアーケードゲーム、三国志大戦ではハンドル名「国姓爺」として上位プレイヤーの1人である。彼の構築したデッキは「国姓爺デッキ」として名を残している。

日本選手権11と併催されたバトル・オブ・チャンピオンのフォーマット、スーパーシールドの解説を公式サイトで行った。参考

基本セット2012では鍛冶友浩と共にコラムを執筆した。参考

おもな戦績

代表的なデッキ

参考

QR Code.gif