武芸の達人 呂布/Lu Bu, Master-at-Arms
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− | + | 三国志史上、最強と謳われる呂布をカード化したもの。その実力通りとはいかないまでも、[[ポータル三国志]]らしい[[馬術]]をもった良い戦力である。能力的には[[火山のドラゴン/Volcanic Dragon]]の[[色拘束]]をゆるくして[[タフネス]]を低くしたもの。 | |
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*三国志演義では、[[赤兎馬/Riding Red Hare]]に乗り、「人中の呂布、馬中の赤兎」と言われるほど、獅子奮迅の強さだった。 | *三国志演義では、[[赤兎馬/Riding Red Hare]]に乗り、「人中の呂布、馬中の赤兎」と言われるほど、獅子奮迅の強さだった。 | ||
*三国志演義をベースに作られているため、呂布最強という話になっているわけだが、一度使うとわかるが重い上に[[火力]]で結構簡単に死んでしまうため、実は同クラスだったら[[西涼の戦士 馬超/Ma Chao, Western Warrior]]のほうが通りやすく、出やすい。 | *三国志演義をベースに作られているため、呂布最強という話になっているわけだが、一度使うとわかるが重い上に[[火力]]で結構簡単に死んでしまうため、実は同クラスだったら[[西涼の戦士 馬超/Ma Chao, Western Warrior]]のほうが通りやすく、出やすい。 | ||
− | *日本語版では、[[コレクター番号]] | + | *日本語版では、[[コレクター番号]]が1ズレている。 |
− | *[[プロモーション・カード]]として、" April 29, 1999"が印刷されている物と、 "July 4, 1999" | + | *[[プロモーション・カード]]として、" April 29, 1999"が印刷されている物と、 "July 4, 1999"が印刷されている物の2つのバージョンが存在する(→[http://www.magiclibrarities.net/rarities-release-prerelease-1.html 参考])。" April 29, 1999"が印刷されている方は[[RPGマガジン]](1999年6月号)の付録としても配布された。" July 4, 1999"が印刷されている方はシンガポールで行われたイベントで配布された。 |
− | " April 29, 1999"が印刷されている方は[[RPGマガジン]](1999年6月号)の付録としても配布された。 | + | |
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− | + | *[[カード個別評価:ポータル三国志]] - [[レア]] | |
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− | + | ==歴史上の人物== | |
− | + | 字は奉先。并州五原郡九原県の生まれ。当時ではかなり辺境であったが、騎馬民族の交流が盛んで、呂布はその中でも屈指の腕の持ち主であった。陳寿の『三国志』には「呂布は弓と馬に優れ、膂力は人並はずれており、ゆえに『飛将』と呼ばれた」と評されている。最初、州刺使の丁原に仕えていたが、董卓が洛陽を占拠すると董卓は呂布を欲して彼を誘う。呂布はそれに乗って、丁原を殺すと董卓に仕えるようになる。暴政と強権をもって政治を敷いた董卓のそばに彼がはべることにより、董卓をとめるものはいなかった。ときに、曹操が発起し袁紹が盟主となった反董卓軍を虎牢関で退けるなどの強靭ぶりを発揮した。 | |
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+ | しかし司徒の王允が董卓の排除を企み、呂布に示唆すると呂布はそれに乗る。これには董卓と呂布の間でおきたすれ違いが起因していると考えられている。たとえばある日、些細なことで戟(武器の一種)と飛ばしたり殴りかかられたり、あるいは侍女を巡ってもめたりしている。この侍女、当然だが「三国志」には名前は残っていないが、三国志演義では「貂蝉」という美しい名前を与えられて、大いに脚色が成されている。 | ||
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こうしたことを背景に、呂布は董卓を裏切って殺してしまう。しかし、すぐに董卓の子飼いの部下に追い出され(この際、王允は斬首)、各地を点々とする。この中で、袁紹の客分であったときに常山で寡兵で奮戦し、張燕ら賊軍を討ち果たすという戦果をあげている。しかし袁紹が呂布に殺意を抱くとさらに逃げ、張邈の下に迎え入れられる。ここでは、陳宮という軍師が一役買っていたことが考えられる。張邈自身は曹操と若い頃の知り合いであったが、呂布を迎え入れたことで不和となり、両者は戦闘を繰り返すが呂布は敗退する。そして当時、勝手に徐州を占拠して州刺使を名乗っていた劉備の下を頼り、客分として迎え入れられる。 | こうしたことを背景に、呂布は董卓を裏切って殺してしまう。しかし、すぐに董卓の子飼いの部下に追い出され(この際、王允は斬首)、各地を点々とする。この中で、袁紹の客分であったときに常山で寡兵で奮戦し、張燕ら賊軍を討ち果たすという戦果をあげている。しかし袁紹が呂布に殺意を抱くとさらに逃げ、張邈の下に迎え入れられる。ここでは、陳宮という軍師が一役買っていたことが考えられる。張邈自身は曹操と若い頃の知り合いであったが、呂布を迎え入れたことで不和となり、両者は戦闘を繰り返すが呂布は敗退する。そして当時、勝手に徐州を占拠して州刺使を名乗っていた劉備の下を頼り、客分として迎え入れられる。 | ||
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こうした反乱とともに、高順・陳宮ともども縊り殺される。この際、配下であった張遼・臧覇らは曹操軍に下り、長く仕えることになる。 | こうした反乱とともに、高順・陳宮ともども縊り殺される。この際、配下であった張遼・臧覇らは曹操軍に下り、長く仕えることになる。 | ||
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2008年8月16日 (土) 10:29時点における版
伝説のクリーチャー — 人間(Human) 兵士(Soldier) 戦士(Warrior)
速攻、馬術(このクリーチャーは、馬術を持たないクリーチャーによってはブロックされない。)
4/3三国志史上、最強と謳われる呂布をカード化したもの。その実力通りとはいかないまでも、ポータル三国志らしい馬術をもった良い戦力である。能力的には火山のドラゴン/Volcanic Dragonの色拘束をゆるくしてタフネスを低くしたもの。
- 三国志演義では、赤兎馬/Riding Red Hareに乗り、「人中の呂布、馬中の赤兎」と言われるほど、獅子奮迅の強さだった。
- 三国志演義をベースに作られているため、呂布最強という話になっているわけだが、一度使うとわかるが重い上に火力で結構簡単に死んでしまうため、実は同クラスだったら西涼の戦士 馬超/Ma Chao, Western Warriorのほうが通りやすく、出やすい。
- 日本語版では、コレクター番号が1ズレている。
- プロモーション・カードとして、" April 29, 1999"が印刷されている物と、 "July 4, 1999"が印刷されている物の2つのバージョンが存在する(→参考)。" April 29, 1999"が印刷されている方はRPGマガジン(1999年6月号)の付録としても配布された。" July 4, 1999"が印刷されている方はシンガポールで行われたイベントで配布された。
参考
歴史上の人物
字は奉先。并州五原郡九原県の生まれ。当時ではかなり辺境であったが、騎馬民族の交流が盛んで、呂布はその中でも屈指の腕の持ち主であった。陳寿の『三国志』には「呂布は弓と馬に優れ、膂力は人並はずれており、ゆえに『飛将』と呼ばれた」と評されている。最初、州刺使の丁原に仕えていたが、董卓が洛陽を占拠すると董卓は呂布を欲して彼を誘う。呂布はそれに乗って、丁原を殺すと董卓に仕えるようになる。暴政と強権をもって政治を敷いた董卓のそばに彼がはべることにより、董卓をとめるものはいなかった。ときに、曹操が発起し袁紹が盟主となった反董卓軍を虎牢関で退けるなどの強靭ぶりを発揮した。
しかし司徒の王允が董卓の排除を企み、呂布に示唆すると呂布はそれに乗る。これには董卓と呂布の間でおきたすれ違いが起因していると考えられている。たとえばある日、些細なことで戟(武器の一種)と飛ばしたり殴りかかられたり、あるいは侍女を巡ってもめたりしている。この侍女、当然だが「三国志」には名前は残っていないが、三国志演義では「貂蝉」という美しい名前を与えられて、大いに脚色が成されている。
こうしたことを背景に、呂布は董卓を裏切って殺してしまう。しかし、すぐに董卓の子飼いの部下に追い出され(この際、王允は斬首)、各地を点々とする。この中で、袁紹の客分であったときに常山で寡兵で奮戦し、張燕ら賊軍を討ち果たすという戦果をあげている。しかし袁紹が呂布に殺意を抱くとさらに逃げ、張邈の下に迎え入れられる。ここでは、陳宮という軍師が一役買っていたことが考えられる。張邈自身は曹操と若い頃の知り合いであったが、呂布を迎え入れたことで不和となり、両者は戦闘を繰り返すが呂布は敗退する。そして当時、勝手に徐州を占拠して州刺使を名乗っていた劉備の下を頼り、客分として迎え入れられる。
しかし、呂布はここでもまた離反して逆に徐州を占拠し、劉備を組み敷いてしまう。のちに袁術と連携を図るために婚姻などの計略をめぐらせるが、陳珪と陳登親子の策略によって阻害される。袁術は激怒して一度呂布を攻めようとしたが、陳登は離間の計を使って袁術軍を混乱に陥れると、呂布はこれを打ち破った。
しかし徐々に曹操によって追い詰められた呂布は下ヒで水攻めに遭う中、「虎狼」と忌み嫌われるほどの猜疑心の強さや、人心掌握術の決定的な下手さなどといった人格的欠陥があだで次々と部下の反乱を招く。このまずさは、軍師の陳宮などといった部下は彼に対して最後まで忠実に仕えていたといわれるが、一時期は離反を考えていたような記述も残るほどである。
こうした反乱とともに、高順・陳宮ともども縊り殺される。この際、配下であった張遼・臧覇らは曹操軍に下り、長く仕えることになる。